中本誠司へのメッセージ/No.3

中本誠司について ギタリスト 吉田修

故中本誠司氏と出会ったのは、中本誠司個人美術館で行われているミュージアムコンサートであった。
在仙の音楽家を招いて、 日曜のひとときお茶を飲みながらクラシック音楽を聴く会である。
休憩中は彼の作品を自由に鑑賞でき、自分もよく足を運んだものだった。
30代にとどこうかという時にお鉢が回ってきた。
当時中本氏の所に居候をしていたアメリカ人のフラメンコギタリストとデュオコンサートを行った。

演奏が終わってお客が引き上げた後に、関係者達で打ち上げとなった。
その日の中本氏は自分の演奏がどうも気に入らなかったらしく、 酒が入っていたせいもあってか
「くだをまく」といった状態だった。 その時の彼の言葉の中でいまだに忘れられず、
またその意味が明確に解っていないものがある。 彼は、酒の入ったグラスを持ちながらこういった。

「大体おまえは自意識過剰なんだよ。どうせおまえにはこのグラスがグラスにしかみえねえんだろ。」

自意識過剰であったのは認めるが、グラスがグラスにしか見えないというのは、どうもよくわからない。何か深い意味があるようにも感じる。

彼は、現代美術に携わる人間の常識としてそれを言ったのか、はたまた自分の演奏を聴いて直感的にそう感じたのか、今となっては確かめる術はない。 現代美術に於けるこの言葉の意味については、本サイトの執筆者の1人である近江俊彦氏にその解説を是非期待したいところである。

音楽ということに関して、 この言葉の意味を考えてみると、古典音楽に於ては、伝統を重んじることは重要であるが、だからといって古い型を破らなくて良いということにはならない。 自分の演奏は、固定観念に縛られた、 過去の産物のようであった、ということだろうか?はたまた、極度の緊張のあまり、テンポや表情に自由さや余裕のようなものが感じられなかった、ということだろうか?

そもそもクラシック音楽において、 型を破ってゆくとはどういうことを指すのであろうか?
また、その必要は本当にあるのか?未だ不明である。

中本氏とは、何度かお会いしただけで、製作中の様子を拝見したり、個人美術館の二階のよく響く通路で録音をさせてもらったりと、それほど親密におつきあいをしていたわけではないが、 会うたびの印象や言葉の衝撃が非常に強かったのをよく覚えている。また、高さ3メートル程の絵を製作中の彼の形相は今でも、脳裏に焼き付いて離れない。

自分の父の時もそうだったが、亡くなってみて初めて、本当はどういう人だったのかなどと考えさせられたりする。
中本氏も自分にとってそのような人物である。 中本氏と出会ったあなたも、 そう感じている1人ではありませんか?・・・・・・

2000年10月5日 吉田修(ギタリスト)
〜仙台インターネットマガジンより〜
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